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居場所研究会発足のお知らせ「居場所研究」
このページの本文が、当事者、家庭、居場所、機関、サービス、行政、福祉をはじめとしたさまざまな方々の架け橋となれることを切に願っております。
私のフリースクール生き残り戦略
二〇一八年上京、サポート校設立の目標を抱いて
雑誌を作って最初の原稿が苦労話というのはいかがなものかとは思いつつも、どなたかのお役に立てればと思いこのテーマにすることにしました。これから居場所を作っていきたいと考えている方にとって、実際に居場所を作った人からのリアルな話を聞く機会というのは、案外少ないものだと思います。かくいう私も最初は理想だけを掲げて、見切り発車をしてしまいとても苦労しました。初年度からさっそく経営に行き詰まり、作る前にもっと色々な人から話を聞いておけばよかったと後悔しましたが、話を聞くといっても、一体誰に聞けばよかったのか、誰なら具体的なことを教えてくれたのか。当時の私には頼るべきところがありませんでした。
三重県の大学院を出た私は、私立高校を中心に八年ほ 教員生活をした後、二〇一八年に東京に移り住みました。東京を選んだのは、サポート校を作るにあたって、「首都圏でモデルケースを作りたい」と考えたためです。そして、そのビジネスモデルを地方に広げていきたいと志したのです。 地方での教員生活のなかで、地方から何かを変えることの難しさを感じていた私としては、最初から本丸を攻めるのが一番早く、確実だろうと考え、行動を起こしました。
まず東京での初年度、業界大手の学習塾が運営するサポート校で教員として働き、サポート校の運営、経営について学びました。これまでの教員生活のなかで、私には「売り上げ」という概念がありませんでした。生徒に対して「善いこと」をすれば生徒が増え、給料が上がっていく、むしろ給料は副次的なもので、生徒のために頑 張っていればいつの間にか給料が上がっていた、という感覚です。ですから、「株式会社立」の教育機関が売り上げを伸ばしていくために生徒に対してセールスをしか けていくというような感覚に対して、子どもを食い物にしていると感じ、嫌悪感を持っていました。しかしこのような「教員的感覚」が経営者としての私を後々苦しめていくことになります。二〇一九年、滝野川高等学院設立に向けて
東京での最初の一年間はサポート校で働きながら、経営について勉強を続けました。そして休日や、有給休暇 が取れた日には空きテナントの情報を片手に、山手線沿線、中央線沿線、埼京線沿線、というようにその日の目的地を設定し、一駅ごとに降りたり、一駅間を歩いたりしながらサポート校を設立する場所を吟味していきました。朝夕の電車の込み具合を確認して、サポート校の始業時間、終了時間を考えたり、駅からの距離、生徒が駅 から徒歩で来た場合の安全性、悪天候時のことを考えたり、考えることは意外に多かったのですが、次第に候補が絞れてきました。第一候補になったのは、東京都北区の王子駅 十条駅、板橋駅の周辺です。このあたりは東京駅や新宿駅 池袋駅などの主要駅からのアクセスが良く、テナント料もさほど高くなく、駅の周辺もほどよく 活気がありつつも落ち着いています。今思えば、日本のフリースクールの草分け的な存在である東京シューレさんが王子にありますので、この辺りに作ってしまうのは 大変問題なのですが、当時の私はあくまでサポート校を作ろうとしていて、その支援範囲に中学生が含まれるという認識でしたので、「競合他社」という認識はありませんでした。
ちなみにとても簡単な概念規定として、サポート校は通信制高校と連携しつつ、高校生の通信制高校卒業をサポートする施設。フリースクールは不登校の主に小中学生が日中の居場所として過ごす施設です。 私は中高一貫で不登校の生徒の高校卒業資格の取得をサポートしながら、生活リズムを整える手伝いをし、検定資格取得の後押しをし、大学合格を支え、その先社会で活躍できる人材を育てる、というイメージを持っていたので、それはサポート校であると思っていました。しかし開校してすぐにフリースクールの概念にも当てはまるということを知りました。そんなこともあり校名に「高等学院」というサポート校特有の呼称が入っているわけです。「滝野川」は王子駅から板橋駅の途中にあるとても閑静な地域で、サポート校を構えるにはうってつけの場所でした。そして私とも浅からぬ縁がある場所でもあるのですが、それは別の機会にお話しすることとします。滝野川高等学院設立といきなりの大ブレーキ
数十駅の周辺を歩き回り候補地を選定していく中で、最も理想的だと感じていた滝野川の地にサポート校を作 ろうと考えた私は、学校名を「滝野川高等学院」とし、教室となるテナントを二つまで絞り込んでいました。 しかしここで運命を大きく左右することが起きます。
それは北赤羽駅から至近の場所である浮間で、急に良い条件 のテナントの空きが出たという不動産会社からの連絡でした。北区の北端にあるこの場所には緑が多くあり、川や池があり、野球やサッカー、運動ができる広いグラウンドがあり、子どもが遊べる小さな公園がいくつもある ことから、当初から候補地のひとつとして考えていました。しかしその時点では良い条件のテナントが見つからず、候補地から外したという経緯があったのですが、ここにきて急転直下で再度候補に浮上しました。
連絡を受けた私は、その足でテナントの内見を行い、周辺を散策して、テナント周辺の環境の良さ、何より北 赤羽駅から徒歩三〇秒という好立地に惹かれ即決しました。こうして滝野川から北に五キロほど進んだ北赤羽の地に「滝野川高等学院」は設立されることになりました。いまだに「浮間なのになんで滝野川高等学院なの?」と聞かれることはあるのですが、明確な答えは私 にも分かりません。強いていえば、そのときの直感を信じたということです。いずれは滝野川にも分校を作りたいとも思っていますが、それは少しだけ先の話になりうです。もしあのとき滝野川の地で教室を開いていたら、おそらく今頃は教室を閉めていると思います。それには根拠もあるのですが、これもまた稿を改めます。こうして、開校間際で設立場所を変えるというイレギュラーはあったものの、二〇一九年の四月に滝野川高等学院は比較的スムーズにスタートを切ることができました。しかし物事はそう簡単にはいきません。 最初に幸先よく高校三年生が一人入校してくれた後は新しい生徒がなかなか入ってくれず、夏に一人、秋に一人、冬に一人 という、あまりに寂しい最初の一年となってしまいました。
今思えば、ただでさえ子どもが不登校になり不安を感じている保護者さんが、何の知名度も実績もないサポート校に子どもを預けたいと思うわけがありません。 そのため大手の学習塾や大学、専門学校を運営している法人、有名人を広告塔にでき、数年赤字でも揺らぐことのない大企業などが運営しているスクールに生徒が集中す ることになります。その一方で、それ以外の小規模なサポート校、フリースクールにとっては実績が生まれるまでに必要な二、三年の時間を生き残り、スクールを存続させること自体が至難の業なのです。当時の私はそんなことを想像する力すらなかったため、集客で大変苦しむことになりました。
そうした中でコロナ禍になり、全世界的に経済活動がストップしてしまい、経営はいきなり絶体絶命の状態となりました。スタッフ三名と生徒四名での一年間は売り上げ的に大変厳しいものでした。そして何より生徒が誰 も来ない日の教室のガランとした感じはとても寂しく、不安なものでした。私と若いスタッフ二人で来るか来な いか分からない生徒を待っている時間はとても長く感じられ、否が応にも焦りを感じずにはいられませんでした。ほどなく私はアルバイトを始めることにしました。それは東京駅の前の工事現場で交通誘導をするアルバイトで、二〇一九年の秋のことでした。
一九時頃、教室のある北赤羽駅を出て、工事現場に二○時前に入り、そこから工事が始まります。そして夜明け前の午前四時頃にその日の工事が終わります。午前五時頃の京浜東北線の始発で赤羽まで行き、赤羽のインターネットカフェでシャワーを浴び、教室に戻ってきます。その頃にはもう七時前になっていて、私は教室で九時くらいまで仮眠し、十時過ぎくらいにはスタッフや生 徒が教室にやってきます。工事現場で得られる給料が二十五日に振り込まれて、翌日にはテナント代、光熱費などが一気に引き落ちていきます。 工事現場での一ヶ月の頑張りが、「教室を手放さない」だけのために一日で全て消えていきました。そんな中でも何とか耐えて、耐え抜いて、夜中の工事現場に立ち続け半年が過ぎた頃、少しずつ、少しずつ生徒は増えてきて開校二年目の夏前に工事現場の仕事を退きました。
東京都心の冬の真夜中にビル群を吹き抜ける風は言葉では形容しがたいほどに冷たく、冷え切ったアスファルトは容赦なく体温と足の感覚を奪っていきました。その寒さ、冷たさ、苦しさを私は一生忘れることができないと思います。元旦、東京大神宮にて
警備員のアルバイトには夜の工事現場以外にもいくつか現場があって、工事現場が休みの年始には、神社の初詣客の動線を管理する現場に行っていました。その現場 東京大神宮でした。東京大神宮には天照大神がお祀りされています。私は大学時代、皇學館大学という日本でたった二つしかない神職を目指すことができる大学に通っていました。 大学がある三重県伊勢市は伊勢神宮のお膝元で、伊勢神宮には皇祖神である天照大神がお祀りされています。私はそんなことに不思議な縁を感じつつも、年越しをまさかこんな形で迎えることになるとは思 いもしていなかったので、少々複雑な気分で参拝客を誘 導していました。そして警備員の控室でつかの間の休憩を取っていたときに不思議な出来事が起こります。
警備員の控室に一人の巫女さんが慌ただしく入ってきて、「すみません、間違えました」と言って、また慌ただしく出ていきました。おそらく巫女さんたちの控室と 間違えて入ってきてしまったのでしょう。しかし、しばらくするとまた同じ巫女さんが入ってきました。なんだろうと思っていると、その巫女さんはつかつかと私の前まで歩み寄ってきて、「ひょっとして豊田先生ではありませんか?」と問いかけてきたのです。私は状況がつかめないながらも、「はい、そうですが・・・」と答えたのですが、すると彼女は、「私、先生のファンなんです」と 言って微笑みかけてくれました。聞くところによると、彼女は不登校だった時期があり、不登校の生徒を支援していた私のことをインターネットで知り、密かに応援し てくれていたとのことでした。スクールの運営に完全に行き詰っている中で、こうして応援してくれている人がいると知ったことが、私にどれだけの力をくれたことか。そのとき私は絶対にここで諦められない、諦めてなるものかと心に誓いました。
年始の神社での仕事も終わりしばらく後、その巫女さんは滝野川高等学院に入校し、うちの生徒になりました。彼女は大学で単位取得のためのレポートが上手く書けず、単位をいくつも落としていたのですが、サポート校に通うようになって、私から文章の添削を受けるようになると順調に単位を積み重ねていきました。元々極めて優秀な学力を持っていた彼女は、ひとたび文章作成のコツを得ると、そこからは水を得た魚のように結果を出し続け、瞬く間に卒業に必要な単位を取得し、公務員試験では連戦連勝、やがてフリースクールから巣立ってい きました。もともとあの雑多にものが置かれた警備員の 控室に入ってきて一瞬で、インターネットで数回見ただけの私の顔と名前を一致させることができるような記憶力と、情報処理能力を持っている学生ですから、当然の 結果だったと思います。
今の滝野川高等学院には「アカデミックコース」という大学卒業のためのレポート作成や、卒業論文、就職試験、大学院入試などをサポートするコースがあります。そのコースは実をいえば、彼女の卒業を応援するなかで培われた技術がそのままコースになったもので、今でも数人の学生が所属しています。 もしあの日、彼女が警備員控室に間違えて入ってこなかったら、その後、アカデミックコースに入り大学卒業を果たした数人の生徒たち の運命はまた違うものになっていたかもしれません。ひょっとしたら、私もどこかで心がポキリと折れてしまっていたかもしれません。 コロナ禍が終息に向かい、生徒で賑わい始めたスクールで、その役目を終えたようにい つの間にか教室からいなくなってしまった彼女は、ひょっとしたら天照大神から遣わされた、神の使いだったのかもしれませんね(現在は公務員として頑張っています)。あるいは、若く一番多感な時期に伊勢で学び、幾度も神宮に参拝していた私を見ていた神様から御導きがあったのかもしれません。試行錯誤の二〇二〇年
初年度の苦戦の原因を分析したとき、足りなかった考えとしては、需要を考えなかったことでした。 まず通信制高校のサポート校単体で経営を成立させることは困難です。というのも、かつての通信制高校は通信教材(レポート)、単位認定テストのための勉強を独力でこなす 難しさがありました。したがって通信制高校の卒業をサ ポートする、「サポート校」にはそれなりの需要がありました。しかし近年では通信制高校は、週五日登校コースを開設しているところが多くなり、サポート校が果たしていたような、単位を取るための支援を通信制高校自 らおこなうようになりました。 単位を出すところが、単 位取得の支援をやってくれるのですから、卒業率はどんどん高くなり、サポート校の需要はどんどん無くなっていきます。私はそんなサポート校受難の時代が始まった頃にサポート校を作るという、時流を読めない行為をしてしまったことで、スタートからつまずいたというわけです。ただ私の構想はサポート校を中高一貫的に考え、中学生から最大六年間サポートするといったものであり、中学生に対するサポートが一般的には「フリースクール」といわれるもので、そこにはかなりの需要がありました。中学生の多くは不登校の克服、学校復帰、高校受験を志向しているため、中学生が受験に合格すればするほど、学校に復帰すれば復帰するほど、地域での評価は高まり入校者が増えていきます。またフリースクールに入校する生徒は、友達を必要としている生徒、生活リズムを直したい生徒、家以外に過ごせる居場所を必要としている生徒など、ニーズが多様です。サポート校の高校生のほとんどが、高卒資格を取得することを第一の目的としているのに比べ、フリースクールは集客の範囲が広いという点において有利でした。滝野川高等学院はサポート校として開校しましたが、二年目には「サポート校・フリースクール」と併記するようにしました。またこの年は学習塾も立ち上げました。
そもそも需要があまりないサポート校、需要はあれど、不登校生が各地に点在しているためピンポイントで 集客することが難しいフリースクールに比べ、学習塾は周囲にチラシ等で周知すれば誰かしら入校してくれます。ポスティングの会社に近隣世帯に一万枚程度のチラシを入れてもらうようにすると二、三人の入校が見込めます。塾単体で勝負していたり、大手の塾に高額なフランチャイズ料を払っていたりする塾にとっては、数人入っただけでは到底運営は成り立ちませんが、サポート校・フリースクールの運営の一助としてであれば、充分な集客といえます。 こうしてサポート校、フリースクール、学習塾、という三事業を同時に展開することで集客 の間口を広くし、二〇二〇年度の終わりには一五人程の 生徒が在籍するようになりました。依然経営は厳しいものがありましたが、何とか最悪な状況は脱しつつありました。生徒数大幅増の二〇二一年
二〇二年、突如として小学低学年の児童の入校相談が相次ぐようになります。不登校問題は数十年にわたり長らく主に中学生を中心とした問題であり、小学生の不登校生もいたものの、数としてはそれほど多くはありま せんでした。しかし二〇一七、一八年頃から一気に増え 始め、二〇二一年には八万人を超える小学生が不登校となっていました。前年度から約三〇%増というのは驚異 的な数字と言わざるを得ません。そういった中で不登校小学生の居場所は全国的に不足しており、これまでフリースクールの多くが中学生をメインターゲットにしてい たことも相まって、滝野川高等学院で何とか子どもを受け入れてくれないか、という小学生の子どもを持つ保護者さんたちからの問い合わせが急増しました。
私たちとしては、れていて、 二人だけですがフリースクールでも小学高学年の生徒を受け入れている状態でした。また先述の大学生をはじめ、支援が必要なことに年齢は関係ないことも 分かってきていたので、今さら躊躇は必要ありませんで した。小学生を受けいれてからビックリするようなこと が何回か起こったのですが(これについては紙面を改め ます)、小学生たちはそれ以上に明るくて元気で、控え めな生徒の多い中高生に灯りをともしてくれる存在にな っていきました。 二〇二一年はこういった社会の変化の 影響も受けつつ、在籍生徒の低年齢化が進みました。 そ れと同時にとても活気のあるスクールとなり、地域での 知名度も一気に高まっていったように思います。 気が付 けば生徒総数は三〇名を超えました。 まだまだ経営的に は苦労がありましたが、ひとまず倒産することはなさそ うだという安心感が高まった一年でした。二〇二二年、株式会社自由教育設立
サポート校・フリースクール・学習塾として四年目を迎えた二〇二二年は新たな教育問題の顕在化によってフリースクールを必要とする生徒たちが増えた年でした。それは、「私立中学校生」の不登校問題です。二〇二三 年の調査で不登校児童生徒数が三十万人に迫っているという事実が明らかとなりました。しかしその中で私立の 小中学校に通う生徒たちの数はほんのわずかです。しかも私立学校はある種、閉ざされた社会であり、内情が分かりにくく、そもそもやる気のある生徒が高倍率をくぐり抜けて入学してくるわけですから、不登校とは縁遠いように見られてきました。また私立学校の生徒が不登校になった場合、在籍を諦めて、公立の小中学校に転入することが既定路線となることもあり、私立学校の中で不登校になり長期間苦しんでいる生徒が存在することはあまり想定されていませんでした。また私立中学校には入学できるだけで「恵まれている」という認識があるため、支援の対象とはなりにくいという面があったかと思います。二〇二二年からは私立中学校で不登校になった生徒の保護者さんからの入校相談が相次ぎました。話を聞くと、中学受験の塾が厳しくて精神的に疲れてしまった。私立中学の独自の校風についていけなくなった。周りの子の頭が良すぎて学力的に取り残されてモチベーションを失った。親が追い込みすぎて子どもが精神を病んでしまった。など公立中学校で不登校になる生徒とは少しずつ違った理由で不登校になっていました。しかし総じていえるのは、公立中学校の不登校生よりも問題の本質を掴みにくいことでした。
これまでに会ってきた不登校生はフリースクールで元気になれば、学校に復帰しても元気でやっていける生徒がほとんどでした。昼夜逆転している、発達の特性がある、特定の人間関係のせいで不登校になっている、学力不振で学校へのモチベーションが下がっているなど、ある程度、不登校となる原因がはっきりしている生徒が多いという印象がありました。しかし私立中学校の不登校 生徒はフリースクールで元気を取り戻して、学校に行けそうだと思っても、いざ学校に行こうとすると原因不明 の体調不良に悩まされ結局行けなかったり、どれだけ元 気になっても、学校には戻らないという意思を固めていたりと、支援のゴールがどこなのかを掴むことが困難でした。保護者の過剰な受験熱や、中学受験専門塾の厳しい指導、合格を勝ち取らなければならないことへのプレッシャーなど、複数の要因はあるのでしょうが、それを 私たちが分析し、問題を解決することは難しいと感じています。したがって、まずは安心していられる場所を用 意し、プレッシャーから解放してあげることからやっていこうと考えました。今のところは公立中学校に転校し、少しずつ学校に通い始める生徒、中学での学校復帰は目指さずに、系列の高校ではない別の学校法人が運営する高校を受験して、そこで学校復帰を目指すケースが見られています。 こうして二〇二二年は私立中学校の生徒が増え始め、前年の流れそのままに小学生の生徒も増えていきました。 そして生徒数が五〇人程に増えました。 生徒数が増えて安定的な運営が可能になったため、これまで私の個人事業だった滝野川高等学院は、二〇二二年十二月に株式会社自由教育として法人化し、私が代表取締役となりました。NPOではなく株式会社にした理由は、フリースクールは非営利的な業態をしていますが、その経営を安定させるためには資金がある程度潤沢である必要があるためです。 そしてフリースクール経営のための資金の獲得は、貰えるか貰えないか分からない 寄付金や、いつ打ち切られるか分からない助成金などに 頼るのではなく、自力で稼ぎ出すべきであると考えたためです。できればフリースクール単体で得た売り上げのみで経営するのがベストなのでしょうが、生徒が学校に復帰すると売上げを失うという、いかんともしがたい不安定なシステムをとらざるを得ないフリースクールは、 経営を安定させるために機を見て、営利的な事業に積極的に手を出していくべきであると私は考えています。そのために私は「株式会社」を設立し、資本主義経済の中で生き残っていこうと決意したのでした。
ちなみに会社名である「自由教育」が意味するところは、「liberal arts education」 であり、つまりが「教養教育」です。現在の日本では勉強は進学のため、就職のため、出世のためにやるものとなってしまっています。しかし本来の勉強、学問は興味があるから、知りたいからやるものであり、もっと自由なものであったはずです。 何かをなすための道具となってしまった勉強には自由はなく、義務ばかりがつきまといます。それは私立 中学で不登校となった生徒を見ているときに特に感じま す。おそらくこの国は学問の方向性を完全に見失っており、高いポテンシャルを持った子どもたちほど、その歪 受験システムの被害者となっています。
思うに子どもというのは純粋な存在であり、だからこそ真理から外れたことが本来はできないようになっているのではないでしょうか。 そこを理解しない周囲の大人が無理をさせてしまえば、子どもが頑張ろうとすればするほど体は拒否反応を起こして、できることまでできなくなってしまうのではないかと思います。 子どもたちが心から学びたいと思える学問を探す手伝いをし、その学問の成熟を後押し、見届けていくことこそが私の考える「自由教育」の在り方であると考え、それを会社の名称としました。二〇二三年、蒔いた種が芽を出し、実り始める
運営母体を株式会社にしたことで、その実態以上に周りからの見る目が変わってきました。「安定して見える」というのは集客上の大きな武器です。強そうな見た目をしている動物が襲われにくい、というのと似ているかもしれません。不思議と信頼度が増し、入校相談者での来校者の入校率が上昇しました。個人事業が株式会社になると勢いがあるように見えるようです。 これらを加味して、今後フリースクールを立ち上げる方は、最初から株 式会社を設立してフリースクールを経営する方法もある と思います。ただ、やはり「名が実を伴う」ということ もまた大切だと思いますので、まずは個人事業で実績を積んで、そのうえで一般社団法人がよいか、NPOがよいか、株式会社がよいか、やりながら考えるのもよいと思います。
さて、先ほどフリースクールは生徒が学校に復帰すれば売り上げを失うと述べましたが、滝野川高等学院では学校に復帰した生徒の多くがそのまま学習塾に移っていくというスキームをこの五年である程度、確立させることができました。また、夏休みなどの学校の長期休みを利用してフリースクールに来る生徒もいます。不登校生は学校に復帰したらすべての問題が解決するというわけではありません。学校に復帰したらしたで、定期テスト で点を取らないといけない、受験はどうするのか、不登校は再発しないか、と課題は山積みです。そんな課題に 答えられるのが、学習塾部門を持つフリースクールです。それどころか、フリースクール部門に通いながら、別の日の夕方には塾部門に顔を出すハイブリット型の生 徒も複数出てきました。 最初はサポート校・フリースク ールの集客の難しさ、収入不足を補うために作られた塾でしたが、気が付けば、フリースクール生のセーフティーネットとしての側面を強く持ち、フリースクール入校の決め手となることもある学習塾となっていました。 もともとの本業のサポート校のほうも、徐々に活動が周知されてくると、全日制高校で不登校になって留年が決まった生徒や、在籍している通信制高校が自分に合わずに単位を多く落としている生徒などが助けを求めにくるようになりました。またフリースクール在籍生のうち、全日制高校の受験を選ばない生徒はそのままうちに在籍し、サポート校生として高校卒業資格の取得を目指すようになりました。フリースクール生たちの中には、もし進学した先の高校で不登校になったら滝野川に戻ってくればいい。という安心感を武器に高校受験に挑む生徒も多くいます。
こうして設立当初からありながら、すぐにお荷物となってしまっていた「サポート校」も最近ではやっと輝き を放つようになりました。 こうして二〇二三年が終わる頃、生徒総数は八〇名に迫る大所帯となり、生徒数だけでいえば全国でもかなり大きな規模のフリースクールになってきました。内訳としては、フリースクールの小中 高生が五〇人ほど。サポート校 (高校)生が一〇人ほ ど。塾生が二〇人ほどとなっています。二〇二四年は一○○名を超えてくると思います。そうなったときに教育 の質をいかに落とさず、むしろ高めていけるかがカギに なってきます。現在十二名いるスタッフのさらなる成長。そして新しく入ってくるスタッフの定着。何より私が経営者として何段階も成長する必要があります。私はもっともっと頑張っていかねばなりません。教え子たちが同僚に
これまで滝野川高等学院の軌跡を書いてきましたが、当然ながら私一人でやってきたことではありません。私一人ならとっくに自分自身が潰れていたでしょうし、とっくにスクールを潰してしまっていたでしょう。 それを支えたくれた仲間のおかげで今の滝野川高等学院は存在しています。なかでも三名の常勤スタッフはフリースクールにお金がなかった頃には、想像を絶する薄給で働いてくれ、今では私の右腕、いやそれ以上の活躍をしてくれています。その三人はなんと私の高校教員時代の教え子です。
私は二〇一一年から二〇一七年まで三重県のとある私 立高校で教員をしていました。その高校には中学校時代に不登校だった生徒、発達障害の生徒、いわゆる素行不良の生徒、軽度の知的・身体障害がある生徒など、多様生徒がいました。三人はそれぞれ二〇一一年、二〇一四年、二〇一五年に入学してきた生徒で、中学時代には学校に行けなかった元不登校の生徒です。私は担任として、部活動の顧問として、進路指導主事として、三人に深く関わっていました。そんな彼らも成長し、大学に行き、大学院に行き、いつしか私の元に戻ってきてくれました。そして滝野川高等学院を支える主力の教員になってくれました。今では三人ともが修士号を取り、そのうち二人は大学院の後期博士課程に進学し、 不登校研究の 発展に寄与する立派な研究者の卵となっています。これに対しても万感の思いです。
私はもともと歴史学の研究者を目指していましたが、努力不足、実力不足から夢を断念して修士課程修了と同 時に高校教員になった過去があります。そんな私の教え 子から博士課程に進むような生徒が出るとは思いもしませんでした。それだけでも嬉しいことですが、私と一緒 に働いてくれるなんて感激です。私は近年、直接生徒の指導をすることがほとんどなくなり、経営者として日々、組織をいかに安定的に経営していくか、集客はどうするか、資金調達はどうするか、などに頭を悩ませ、勤務時間中はほとんどの時間でパソコンのモニタの前にいてキーボードを叩いています。
ふと画面から目を離して、子どもたちのほうを見るとかつての教え子が、先生として子どもたちに勉強を教えています。私はまだ三八歳なのに、その光景を見ているとき、孫がいるお爺ちゃんのような気分になります。 すごく微笑ましくて、誇らしくて、愛しい気持ちになりま す。私は三人の教え子たちに教員としてできる全てを注いできたつもりですが、そこで売った小さな恩はとうに返し終えられて、今では彼らに借りばかりとなっています。これからもさらに借りが増え続けたら、そのとき私はどうやってそれを返していけばいいでしょうか。おそらく一生返し終わることはないでしょう。決して諦めない
サポート校、フリースクール、学習塾と手広くやってきましたが、それぞれは見通しが甘かったり、思い付きで作ったりと完璧なものなど、何一つとしてありませんでした。でもそれが今ではパズルのピースのように一つずつはまっていって、いつしか連動し、躍動しています。しかし結果が出るには時間がかかり、どこかでは無理をする必要があります。滝野川高等学院が設立したのと同時期にいくつかのフリースクールが各地に設立されました。しかしそのほとんどは今では閉校してしまって、インターネットの中にわずかにその活動の痕跡が残るばかりです。でも、そこには確かに子どもたちが存在していたのです。
私は思います。「子どもの居場所」を作るなら、少なくとも子どもたちにとってそこが必要なくなるまで居場所であり続ける必要があるのではないかと。学校に行けなくて苦しい子どもがやっとのことで見つけて、やっとのことで定着した居場所がなくなったら、子どもたちは、親御さんたちはどんな気持ちになるのか、支援者は考えてほしいです。今の日本では、子どもの居場所を作るのに資格は要りません。元手をそんなにかけなくてもアパート一室にも居場所は作れます。 しかし作るのが簡単なものは、往々にして壊すのも簡単です。日夜、新たな場所が生まれ、消えていく。でも子どもたちが次の場所を簡単に探せるとは思わないでほしいです。 だからフリースクール、サポート校、子ども食堂など、様々な居場所を作った大人たちはそこを潰さないために必死になってほしいです。勢いよく始めるわりに諦めが早い人が目立つように思うのは私だけでしょうか。ここまで五年やってきて、私がたどり着いた「生き残り戦略」は、とにかく子どものニーズを拾うことです。 「こういうコンセプトのものを作りたい」という創設者の理想が先行して、それに合わない生徒を遠ざけてしまっては本末転倒だと感じます。あくまでも居場所の主体は子どもたちであり、子どもたちがこういうことがしたいというものが優先されるほうが、健全な居場所の在り方ではないでしょうか。私たちは子どもたちのニーズを拾い続けた結果、ごちゃ混ぜになってしまいましたが、おかげでたくさんの幅広い個性を持つ子どもたちを受け入れ、次のステージに送り出すことができました。そこ誇りに思っています。 そして、子どもをうちに預けることでホッとする時間ができた。趣味に使う時間が作れるようになった。仲の良いママ友ができた。希望の光が見えた。といってくださる親御さんの声を聞くたびにや ってよかったと思います。子どもは自分の親が楽しそうに笑っている姿を見るのが何よりも嬉しいものですから、滝野川高等学院の存在が少しでも親御さんを安心させられるのならば、それは子どもたちに対しても善いことをしていることになります。喜ばしいことです。 二〇二四年三月、新たな教室ができました。原点回帰、そこにはサポート校の生徒が希望進路に向けて集中して勉強ができる環境が整っています。スタッフも素晴らしい十二名がいて、さらに今年中に三人増やす予定です。小学生たちはもっと自由に、中学生たちはもっと幅広く、高校生たちはもっと集中して、将来を見据えられる場所になっていくんじゃないかと、楽しみにしています。
そういえば東京都教育庁の方と話していて知ったのですが、二〇二四年現在の滝野川高等学院はどうやら東京都内で五番目に生徒数の多いフリースクールとのことです。聞いた瞬間は耳を疑いました。夜中のビル群の工事現場に立っている四年前の私にこのことを教えたら、おそらく信じないでしょうね。人生何があるか、本当に分からないものです。